北陸新幹線で行く,はじめての金沢

お庭,お菓子,お魚,お酒が揃う城下町をまわるため,金沢出身・東京在住者が往復しながらヒントを書いていきます。

豊臣秀吉の養女・豪姫:その住居跡が金沢城・黒門前緑地,菩提寺は「にし茶屋街」近くの大蓮寺

金沢城の黒門下の角には,黒門前緑地という,隠れた観光スポットがあります。場所は,近江町市場十間町じっけんまち口から徒歩4分,武蔵ヶ辻バス停から徒歩7分ほどと,定番スポットからの寄り道は簡単です。トリップアドバイザーで外国人に人気の鮨店・香りん寿司のすぐ前です。

中には,無料で開放されている町家があり,室内を見学しつつ,床の間や縁側,庭などの写真が撮れます。ただし,お茶会等での貸切時を除きます。

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内側に回ると説明があって,豊臣秀吉に寵愛された養女・豪姫の住居跡です。豪姫は,戦国時代に波乱の人生を歩んだため,大河ドラマや映画でもよく取り上げられます。

大坂・秀吉の娘が,なぜ金沢に?

観光でたまたま訪れたなら,なぜ大坂の秀吉の娘が,金沢に住んでいたのか,と疑問を持たれるところ。

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豪姫,関ヶ原の戦い敗北後の終の住処

豪姫は秀吉の養女ですが,実父は加賀藩の初代藩主・前田利家で,その四女。秀吉に仕えた五大老には,徳川家康,前田利家のほかに,宇喜多秀家がいて,そこへ嫁ぎました。宇喜多秀家は岡山城の初代城主で,写真はその岡山城を見上げる後楽園です。

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岡山の後楽園は,金沢の兼六園とともに日本三名園の一つ。兼六園とは対照的に,平地に大きな池を配した,清々しい庭です。庭好きなので,何度か行ったことがあり,過去に撮ったものを1枚挙げるなら,上のような写真です。

夫は八丈島へ,妻は実家のある金沢へ戻る

岡山の宇喜多秀家は,関ヶ原の戦いで西軍であり,敗北。逃走の後,死罪は回避され,八丈島へ流されます。

正室の豪姫は同行を許されず,勝ち組の東軍であった実父の前田家に戻され,金沢へ。それが35歳。子どもは,男子2人が八丈島,女子1人が金沢と別れます。

金沢に住み続けて,亡くなるのが数えで61歳。ドラマや映画の豪姫は,豊臣秀吉や宇喜多秀家との関係を描くため,大坂や岡山が舞台になりますが,結局もっとも長く住んだ土地は,夫と離別後に娘と暮らした金沢でした。

金沢城の黒門下に屋敷と化粧料1500石

失意の後世でも,実家は大藩の前田家で,実父はその初代藩主の利家だけに,生活は保証されます。金沢で城のすぐ脇に屋敷が与えられ,さらに化粧料として1500石です。

この場所は,現在でも好立地で,徒歩2分にはKKRホテル金沢,さらに徒歩5分圏に,ホテル・ザ・エム金沢雨庵うあん三井ガーデンホテル金沢などをはじめ,今後2年ほどにホテルが600室ほども新築されます。

これらホテルに泊まるなら,手軽に散歩できる無料の場所です。

現在の建物は別のもの

ただし,豪姫の住居は,すでにありません。ここに現在ある建築は,明治時代の高峰譲吉博士の邸宅と,もう一棟をあわせたもの。それは最後に説明します。

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この茶室も,明治の造りです。

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金沢は藩主が豪姫の兄,弟の代へ

離別後の秀家と豪姫は,予想外の結末です。離別では,所得や家事能力の高い方が長生きするのがふつう。

夫は,懲罰的な島流しで,農業と漁業での自活。戦国大名から自給自足へと,一変した生活です。

一方妻は,実父が築いた藩に戻り,1605年から兄・利長,1614年から弟・利常が藩主。娘を連れての出戻りとはいえ,金沢では,最高権力者の妹,姉という別格の立場が続きました。兄や弟が天下をとる街で,経済的には万全の処遇でした。

豪姫より秀家が20年以上長生きした

どう見ても,豪姫の方が長生きしそうですが,豪姫は享年61歳,夫秀家は享年83歳。豊かな豪姫の方が,約20年も早く亡くなっています。

これには諸事情ありそうで,八丈島へは秀家単身ではなく,息子2人とわずかな家臣が帯同できたことが一つ。

また,島の主食が米ではなく,さつまいもと雑穀,そして,かつお,まぐろなどが獲れ,かえって健康的だったかもしれません。気候は,金沢より八丈島の方が温暖です。どれも少しずつ効いていそうです。

金沢から八丈島へ仕送りを255年間続ける

その点で伝えられているのは,八丈島での暮らしが加賀藩に知らされてから,藩として隔年ごとに八丈島へ,米や薬などの仕送りをしていたこと。なんと,1614年から明治時代に入った1869年まで,255年も続きます。

庭にある織部灯籠

この屋敷は城のすぐ脇で,豪姫亡き後の江戸時代は武家のもの。それが,明治になって,金沢地方検察庁の検事正官舎になっています。さらに後で,別の屋敷を移築しています。

変遷を経たこの庭には,灯籠が残されています。撮影は,桜の花びらが散る時期です。 

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台座のない織部灯籠で,足下には合掌する人の像があるものです。現在茶室となっているあたりから,灯籠を眺めるとこうなります。

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織部灯籠は隠れキリシタン灯籠?

台座のない灯籠の外形を十字架,足下の合掌する像を聖マリア像と解釈して,隠れキリシタン灯籠と呼ぶ説もあります。その説では,下草などで隠せる位置にあるマリア像を,信仰の対象と考えるようです。しかし,灯籠のデザインとしては普及したもので,信者と無関係な庭にも多く見当たります。足下の人の像がないものも,多くあります。

この灯籠を現場で見ると,庭を改修したときに清掃や移動があったとしても,江戸時代初期のものとしては綺麗すぎる気はします。また,来歴の説明もありません。豪姫の屋敷から別の武家屋敷を経て,明治時代に官舎になる過程のどこかで,新たに置かれたものかも知れません*1。その際,それまでのしつらえを参考に,似た灯籠に置き換えることもありそうです。

豪姫はクリスチャンで,近くに高山右近

なぜそこかといえば,豪姫は大坂でカトリックの信者になっていて,洗礼名「マリア」とされているからです。

しかし,キリスト教をはじめは容認していた養父の秀吉は,1587年に伴天連追放令を発していて,親族としては信仰が難しい立場。さらに,1613年の江戸幕府によるキリシタン禁教令で,その道は絶たれます。

豪姫が金沢に戻される前,前田利家は,その秀吉の伴天連追放令で畿内追放となったキリシタン大名・高山右近を金沢に預かっていました*2

それから1614年に徳川家康のキリシタン禁教令で国外追放となるまで,金沢に住むのですが,当初の屋敷は金沢城・甚右衛門坂の下という説があります。

加賀百万石異聞・高山右近:甚右衛門坂|北國新聞

それは,この黒門前から徒歩2分くらいで,現在の尾崎神社の近くです。

秀吉から追われた高山右近と豪姫は金沢にいた

奇遇なことに,関ヶ原の戦い以後10年ほどの金沢には,秀吉から追放された高山右近と,秀吉の養女の豪姫が,近所に住んでいたことになります。意外と知られていない偶然です。

双方とも,それまでの大名や,大名の正室の地位を失い,想定外に金沢にたどり着いた立場。そして,状況が厳しくなるキリスト教徒であることも同じで,歴史小説が書けそうな場面です。

来歴のわかる隠れキリシタン灯籠は玉泉園に

用途の変遷がなく,江戸時代からのキリシタン灯籠と説明されているのが,玉泉園のこちら。兼六園の近くで,加賀友禅会館の隣りです。

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この庭には,かなざわ玉泉邸という日本料理店が開店していて,食事をすれば,庭全体を観賞できます。庭だけの観覧なら700円です。

信者との記録のある加賀藩の家臣・脇田直賢の屋敷と庭園が,転用されず,そのまま伝わっています。たしかに,下部の人型の像は合掌しているもの。また,金沢の気候では,これぐらい苔むしていると,江戸時代のものと納得できます。もっとも,下部は苔を落として清掃してあるようです。

菩提寺は,にし茶屋街に近い浄土宗・大蓮寺

豪姫が弔われたのは,警戒されていた江戸の徳川家にならってか,浄土宗の大蓮寺です。徳川家康を祀るというと日光東照宮が思い出されますが,家康の菩提寺は東京・芝にある浄土宗の増上寺です。

地元向けには,犀川大橋と広小路交差点の間で,神明宮の南隣り。観光向けには,忍者寺やにし茶屋街に行くときに降りる広小路バス停から,徒歩3分ほどです。

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ふだんは戸が閉まっていて,観光対応はとくにありませんが,裏門には,豪姫のレリーフがあります。

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本堂右奥の墓地が開いていれば,夫の墓所八丈島と,妻の墓所金沢・野田山から分骨された揃いの墓にお参りできます。

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八丈島の宇喜多家の子孫は東京・板橋の加賀藩下屋敷へ

八丈島の宇喜多秀家の末裔は,明治維新により,1869年にようやく島から出る許しが得られます。関ヶ原敗戦の責任は,250年以上の流刑と重いもの。

しかし,備前国・岡山藩が宇喜多家の時代はすでに終わっており,明治政府の指示で戻ったのは,明治に入るまで仕送りを続けていた加賀藩の江戸下屋敷(板橋区板橋・加賀)でした。理由は「旧来由緒」とのことで,八丈島に帯同した,秀家・豪姫の二人の息子の子孫がいるからでしょう。

考えてみると,豪姫は実の息子二人の成長をまったく見ないまま,亡くなっています。日々の生活に困らなくても,これは悲しい。短命の遠因は,そこかも知れません。帰還の経緯は,板橋区のページで読めます。

なお,金沢市は,加賀藩前田家ゆかりの東京3区と友好都市協定を結んでいて,ときどき文化施設などでの割引があります(締結順)。

現在の建物は三共創業者・高峰譲吉博士の生家など

残念ながら,豪姫の住居跡に現在建っている町家は,当時のものではありません。明治時代になって,この場所は金沢地方検察庁の検事正官舎となりました。よくある,武家屋敷から公務員住宅への転用です。

そこに後で,金沢で育った高峰譲吉博士の生家を移築したものです。高峰譲吉氏とは,消化酵素・タカジアスターゼの発見者ですが,それを最初に製造したのが大手製薬会社・三共(現・第一三共)で,その初代社長でもあります。

ここに移築されたのは,父親が加賀藩の御典医に呼ばれ,1歳から金沢で暮らしていた由縁。それはまた,別の記事にします。

*1:明治から少なくとも1995年までは法務省の所有で,その間,灯籠に経費をかけるのは考えにくいところ。住人の検事正は転勤族で,自腹で買って置いていくはずもありません。
 また,後で移設された高峰譲吉博士の旧家ですが,高峰家の菩提寺は,実家の高岡市に由来する金沢市寺町の臨済宗・国泰寺。ニューヨークで亡くなる6週間前に,アメリカ人の妻にならってカトリックに改宗した記録があるものの,それはこの旧家にいた10代の頃から50年以上後です。

*2:高山右近が秀吉の伴天連追放令で畿内追放とされ,前田利家預かりとなり金沢に来た経緯については,金沢市・金沢市観光協会「高山右近と金沢~ゆかりの地~」が簡潔にまとめています。